エドガー・ケイシーと学ぶ 魂の学舎 │ 終戦詔勅の起草者と関与者(中-1)


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終戦詔勅の起草者と関与者(中-1)

終戦詔勅の起草者と関与者(中-1)

~川田瑞穂翁と安岡正篤翁~

 

木下彪(きのした・ことら/元宮内省御用掛・元岡山大学教授)

 

起草より第三案までの真相

 終戦の年、大詔一たび下るや、さしも分裂した国論、混乱した民心も、ぴたり平静に帰して無事に難局が収拾された。全く我が国体、天皇の権威によることであるが、又、聖徳太子の十七条憲法にいふ所の「承詔必謹」が古今を通じて国民の深い信念となってゐたからである。然るに戦後、国体は変わり詔勅は無くなった。然るに世界の風雲は依然として暗い。若し又国家非常事態の出現した秋は、何によって国論統一民心の一致を図ることができようか。国会の議決や総理の命令に何程の権威が有るか。国の将来に深憂を抱く人は決して少なくないであらう。

 

 私は終戦の詔書が、我国千年の伝統ある詔勅の最後であり、その歴史の上に於ける意義の深く且つ大なるを思ふにつけ、それが久しく誤って世に伝へられてゐることに、黙して止むことが出来ない。其の誤伝を私が初めて知ったのは昭和四十四年台湾に於てである。といふのは、四十二年三月岡山大学を定年退職した私は、その年九月台湾の大学に聘せられて赴任し、一年余り経た後、彼地の雑誌に日本の終戦及び詔書に関する記事が出たのを読んで、その間違ひの甚だしいのに驚き、而も(*しかも)その間違ひの原が日本に在ることが分かった。やがて学校の休暇で帰国し、上京した私は川田翁未亡人を訪ねて台湾の雑誌の記事を話し、川田翁が私に示した詔書案草稿の存否を問うた。夫人は「その事についてはお目にかけたいものがあります。草稿は大事にしまってあります」と言ひ、読売新聞の切抜一束と「詔勅其他草案」と川田翁の自署した大封筒とを取り出して示された。私は封筒を検して詔書案草稿の有ることを確かめ、次で読売の切抜を読んだ。それは「昭和史の天皇」と題した長編の一部「終戦の詔書」の題下、当時の内閣書記官長を始めとして関係者各人の談話を寄せ集めたものであった。台湾の雑誌記事も之に拠ったものであることが判明した。

 

 封筒の中には右の川田の草稿と共に、謄写版刷「詔書案」(極秘の印あり)、謄写版刷「内閣告諭案」(極秘の印あり)、内閣用罫紙に書いた「開院式勅語案」(極秘の印あり。終戦の年九月四日召集の臨時帝国議会に賜りし勅語案文)などが有り、その外、何時のものかしらべて見ねば分からぬ各種各様の詔勅案草稿、内閣関係、総理大臣関係の文案草稿など有り。封筒の外にも、川田嘱託に宛てた内閣総務課の書牘の類、川田の友人から寄せられた文翰の類など、苟くも詔書問題の参考となるべき資料が多数発見された。之を一括して未亡人の手から私は借り受けて来た。加藤翁已に亡き今日、川田翁が多年内閣に於て如何に制誥の事に携わったか、而して終戦詔書の起稿に如何に係ったかを知る者は私以外には無い。これを闡明して世の誤伝を正すことは、当然私の義務だと思ったからである。

 

 それで私は嘗て宮内省に於て私の上司又同僚であった人々を訪ねて相談する所があった。其の極く概略をここに記して置かう。先ず入江侍従(今の侍従長)を訪ねて相談し、その紹介で読売新聞の宮内記者で、「昭和史の天皇」のスタッフである星野甲子久氏に会ひ、該書起草者についての誤謬を指摘説明した。それから元宮内省図書頭の金田才平氏(戦後弁護士)に書面を以て指授を乞うた。同氏の来書に云ふ。

「・・・終戦詔書案起草者に関し相争ふことは成るべく避くべきであると存じます但し既に誤報が公表されているとすれば確実なる資料を具し真の起草者の伝記として其の中に詳述し世間の信を得るに足る信憑を網羅し世に信を問うべきでしょう。誤報者それ自身に対し詰問したり訂正を要求しても恐らく之に受け答えをしないでしょう所謂黙殺するであらうと存じます。戦後相当年所を経れば外交秘密文書も公表される慣例がある如く詔書起草者に関するドキュメントを公表しても良いと思ひます。」

 

 私は金田氏の指示に従ひ、川田瑞穂翁の小伝を書いて其の中に翁が草詔の経過を、確実なる資料、世間の信を得るに足る証憑(川田直筆の詔書案第一稿、其他)を挙げて詳述することとし、早く一文を草した。其の後安岡翁に会って話を聞くに及んで、更に文を補修し標題を改めて本稿を為した次第である。

 

先ず川田嘱託が首相官邸内の一室で、内密に起草した「詔書案」の原文(雑誌には写真が掲載)を録出して検討を加へなければならない。これこそ天地間に二つと無い終戦詔書第一稿である。拙文前回に於て述べた如く「書記官長は早速これを複写し、タイプに付して内閣当事者の間に周旋した」ものである。草稿が川田の手に残り、自宅に持ち帰られたことは天の加護といはねばならぬ。

 

 

注:上記で紹介した文章は、終戦当時宮内省の御用掛(専門的な知識を生かして皇室のために働く非常勤の国家公務員)として主に詔書の起草に携わっていた大叔父(祖父の弟)の木下彪(ことら)が、終戦の詔勅にまつわる逸話として雑誌(もしくは同人誌/雑誌名は不明)に掲載した文章です。

大叔父が当時書いたそのままの文章を再現するため、古い書体、旧かなづかい。送り仮名のまま書いていますが、コピーの状態により解読できない漢字が一部あります。また再現できても、今の私には意味不明、どう読むのかさえ分からない言葉もあります。

(  )内に*がついているものは私が書き加えたふりがな、*のないものは、叔父が文章内に書き加えているふりがなです。叔父は、雑誌掲載後、自分でさらに手書きで加筆しており、それは叔父が書いたままを書き加えました。

なお、ネット上で読みやすいように、ところどころ行を空けています。

 

                              光田菜央子

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