エドガー・ケイシーと学ぶ 魂の学舎 │ 終戦詔勅の起草者と関与者(上-2)


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終戦詔勅の起草者と関与者(上-2)

終戦詔勅の起草者と関与者(上-2)

~川田瑞穂翁と安岡正篤翁~

 

木下彪(きのした・ことら/元宮内省御用掛・元岡山大学教授)

 

 

文部省の手になる天皇の「人間宣言」 

 当時、私は宮内省で宮内省御用掛加藤虎之亮翁と一室に二人机を並べてゐた。加藤翁も詔書の事につき川田翁の話を聞いて来たので、二人は詔書と告諭と併せて、忌憚なき見解を述べ合った。国より職掌の然らしむる所である。元来、詔勅類は宮内省に於て起案したもので、内容によっては内閣に於てした。戦争中は大小多数の詔勅が下されたが、大半は宮内省で加藤御用掛の筆に成った。これは私の親しく視て来た事実である。凡そ国家の大手筆には、内閣に川田在り宮廷に加藤在りという一時期であった。

 

 終戦の翌年頭、突然、変わった詔書が公布され、全国民が衝撃を受けた。爾来世に天皇の「人間宣言」と言はれてゐるものである。内容も異常だが文章は更に異常である。一体これは誰の手にかかったのだろう。質ねて見る気にもなれなかった。程経て川田翁に出会ったので聞いてみると「あれは実は自分の所へも廻ってきた。文部省で作ったといふ。我々の手でどうしやうもないものだから、その訳を話して返した」と。官庁の公文書が急に口語横書きになり、漢字制限、仮名遣ひが問題になり出した頃である。この様な詔勅は変わり行く時世の象徴であらう。それにしても余りに変化の急激なのに、驚かざるを得ない。

 

 昭和二十三年三月、政令により嘱託制度が廃止された。川田翁は内閣を解雇され早大教授に専任し、加藤翁は宮内省を去って東洋大学教授、次で同学長に就任した。私は宮内省御用掛で貴族院嘱託を兼ねていたが皆解嘱され、二十五年三月岡山大学教授に赴任した。

 

 二十六年一月川田翁が卒去した。七十三であった。其の訃を伝へた読売新聞は「終戦の詔勅を起草した一人として知られる」朝日新聞は「終戦の詔書の草案に加はった」と書いた。

三十三年十二月加藤翁が卒去した。年八十。両翁は明治十二年生まれで、同庚にして同道、同志、兄弟も竜(*判読不明)ならぬ仲であった。私は両翁に兄事すること二十年乃至三十年に及んだ。ここで両翁の略歴について記して置かねばならない。

 

梅崖に可愛がられた川田翁

 川田翁名は瑞穂、号は雪山、郷里は土佐の雪光山の名から取ったといふ。明治二十八年十七歳の時大阪に出て、漢学者山本梅崖の塾に入り漢学を修めた。三十一年東京に出て漢学者根本通明に経学を学び、三十五年早稲田専門学校政治経済科に入学、中退して京都に出て京都府會書記となる。傍ら政治文学雑志(*ママ)「近畿評論」を主宰し、文名を表はす。大正五年維新史科編纂会嘱託となり、京都方面の史科調査に従事し、十一年維新史科編纂官補となり東京に移る。時恰も漢字振興決議案衆議院を通過するに際し、先輩同志と共に東洋文化学会を創立し、幹事に挙げられ、雑誌「東洋文化」を刊行す。十二年十月、司法省嘱託となり、同時に大東文化学院助教授兼幹事として学院の経営に当る。十三年司法省を辞し、十五年大東文化学院の内紛により同院を辞し、昭和三年同院教授兼学生監として復職す。昭和五年早稲田大学講師。十年同教授。十五年内閣嘱託を兼任。二十三年嘱託制度廃止さる。二十五年早稲田大学を定年退職す。

 

 右略歴は川田翁自筆の履歴書を見て書いた。翁には世のいはゆる学歴は無い。一時早稲田に入り直ぐ退いた。一生の修業は家塾に於てした。山本梅崖の「梅清処塾」根本道明の「義道館」、この二つの漢学塾に於ける前後七年間の生活と、梅崖という文章家、根本羽嶽という経学家の薫陶により、翁の人物、学問、文章は其の基礎が出来上り、更に長尾雨山、国分青崖、松平天行、牧野藻洲等、詩文大家の提撕が加わったのである。

 

 

アダ名は子路

 翁は私が兄事した二十四年間に、折りに触れては昔の厳しい中にも情味のあった塾生活、懇到にして身に浸み入るやうな塾師の講説、教訓などを語ってくれられた。其の詳しい話をここに書く余裕はない。ここには隠れたる学者川田雪山を浮彫りにするような逸話を綴って其の小伝といようと思ふ。

 

 大阪に出た少年川田は郷土の先達梅崖を頼り、天神橋畔の塾を尋ねて入門を願った。孔子の像の前で師弟の盃が取交わされた。塾則は厳格で、朝は夏四時冬四時半に起き、夜は十時に寝る。講義は朝1時間、塾生の外、小中学教員や会社公署の勤人(つとめにん)が出勤前に聴講に来る。暮に二時間。夜二時間。昼は自習である。毎週、文一編詩二首の宿題が出る。月に一回分会がある。梅崖は有名な文章家で、塾では特に作文を重んじた。宿題の文を作り師の添削を受ける。作の巧拙はとも角、構想に修辞に、鍛錬の足りないものは朱で棒を引いたまま返される。再三再四考へ直し作り直す。梅崖は、欧陽修ほどの文豪でも作った文を室の壁に貼りつけ、毎日読んでは直し又直し、苦心惨憺したという故事を引いて「小便に血が出るまでやれ」と言ったと。強度の勉強で頭が錐で刺すやうに痛み、全く血尿の出る思ひをしたと川田翁の話であった。

 

 文会は月に一度、全生徒、師に率いられて大阪郊外に到り、広い料亭の二階を借りて、即席に詩又は文を作り、師は其の場で之を添削する。詩文は思索を尽くすことが肝要だが、時には敏速に用を弁ずることも心得なければならぬとの見地からである。毎月生徒の成績を判定して席次を定め、講堂の入口に揚げた生徒の名札を上下することによって之を表示した。同時に激励の意があったのである。但し、これは当時どこの塾でも実行した事らしい。川田は成績が好く、殊に文章が抜群なので、梅崖から特に目を掛けられた。論語の中で、孔子から最も可愛がられ同時に最も多く叱られてゐる弟子は子路である。川田が度々師に叱られる所を見て、塾中誰いふとなく川田を綽名して子路子路と呼ぶやうようになった。之を聞いた師は川田に「子路は人これに告ぐるに過ちあるを以てすれば則ち喜ぶとある如く、過を改むるに勇に、善を好んだ聖賢の心を学ぶことが大切だ」と諭した。かう言って懐かしさうに昔の師の恩を語る川田翁であった。

 

 

学と徳を兼ねた山本梅崖

 梅崖師は身を持すること厳格で、塾生は師が膝を崩したり横臥したりした姿を見たことは無いといふ。随って生徒を律するにも法があり、殊に若い者が猥褻な談を為し又猥褻な地に近づくことを戒しめた。急ぐ用がある時そこを通ることは如何ですかと問へば、急がば廻れ、急いで廻り道せよと言われたと。当時大阪で最大の塾は藤沢南岳の泊園書院であるが、そこに四つの禁律が有って其の第一が「淫遊」であったと。他は「俚歌」「挙杯」「暴論」で、俗歌、酒乱、喧嘩口論を禁じたのであった。又大阪には亨保九年以来明治二年まで百四十余年続いた有名な懐徳堂といふ塾が在ったが、そこでも五勿の禁なるものが有り、就中「勿登戯場」「勿踏倡街」芝居小屋と花柳街、この二つは特にやかましかったと云ふ。

 

 当時の書生は登山を神聖な行事とし、殊に山に由緒ある神社仏閣又は貴い史蹟が有れば尚更の事であった。金剛山は大阪から往復二十五里、終始徒歩、不眠不休、山頂に登って日出を拝し、楠公勤王の跡を弔って帰る。この難行を塾生数人で試みた時、早朝出発に当り、師夫妻と隠居の母堂まで門を出て見送られたと云ふ。今日の学生が登山を「山を征服する」など云ひ、往々遭難して新聞種になるのとは雲泥の相違がある。

 

 梅崖は土佐で儒を世業とする家に生まれ家学を受けた後、明治初年東京に出て洋学を修め、工部省の電信技師となり、明治十年西南の役に従軍したが西郷に同情して帰り、翌年官を辞して新聞記者となり、大阪、岡山、福井各地の新聞に主筆又編集長を勤め、政治は自由党に属した。十五年大阪に漢学塾を開いたが、経世の志あり、朝鮮問題に関心し、同志の士と相謀り、清国の干渉を排除して朝鮮を独立自主の国たらしめんとの計画を建て、其の檄文を書いたことが政府の忌諱に触れ、入獄四年、憲法発布で大赦に遇ひ、雨後意を政治に断った。其の檄文は「日本義徒、檄告宇内人士」に始まり、朝鮮の孤弱にして清国の圧政に苦しむ事、嘗て米国の独立戦争に当り、仏国の義を見て之を助けたる跡を慕ひ、自由の大義に依り其の独立を助成せんとする所以を論じ、「天下万世、知吾徒之心、如日月著于天」と結んだ。之を日清韓三国に配布し、英仏語に翻訳して欧米の新聞に投寄する予定であったと。檄文は非常な名文である。梅崖には「梅清處文鈔」二巻がある。

 

 明治三十年、清国に遊ぶこと百余日、「燕山楚水遊記」二巻の著がある。自ら写真機を携へて彼地の名勝景物を撮影し、帰来大阪の画家三十人に託し、一人一景ずつ写真に依て絵画を作り、書中に挿入した。我が明治年間、漢学名家にして清国に遊び漢文の遊記を遺したもの、竹添井井の「桟雲峡雨日記」岡鹿門の「観光遊記」と梅崖の「燕山楚水遊記」が其れである。岡と山本は慷慨憂国の士で、二著は時勢に憤激した余の論策と見ることも出来る。今後、此の種の文章三名著の如きを見ることは望めないであらう。いや已に絶へて久しいのである。

 

 山本梅崖は学と徳を兼ね備えた教育者、文章家にして経世家である。其の典型は川田雪山に於て最も多く之を見るのである。

                                   (中に続く)

 

注:上記で紹介した文章は、終戦当時宮内省の御用掛(専門的な知識を生かして皇室のために働く非常勤の国家公務員)として主に詔書の起草に携わっていた大叔父(祖父の弟)の木下彪(ことら)が、終戦の詔勅にまつわる逸話として雑誌(もしくは同人誌/雑誌名は不明)に掲載した文章です。

大叔父が当時書いたそのままの文章を再現するため、古い書体、旧かなづかい。送り仮名のまま書いていますが、コピーの状態により解読できない漢字が一部あります。また再現できても、今の私には意味不明、どう読むのかさえ分からない言葉もあります。

(  )内に*がついているものは私が書き加えたふりがな、*のないものは、叔父が文章内に書き加えているふりがなです。叔父は、雑誌掲載後、自分でさらに手書きで加筆しており、それは叔父が書いたままを書き加えました。

なお、ネット上で読みやすいように、ところどころ行を空けています。

 

                              光田菜央子

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