エドガー・ケイシーと学ぶ 魂の学舎 │ 終戦詔勅の起草者と関与者(上-1)


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終戦詔勅の起草者と関与者(上-1)

終戦詔勅の起草者と関与者(上-1)

~川田瑞穂翁と安岡正篤翁~

 

木下彪(きのした・ことら/元宮内省御用掛・元岡山大学教授)

 

 

詔勅は陛下の仰言 

 

 昨年(昭和58年)12月安岡正篤翁が亡くなった時、各新聞を見ると、皆申し合わせたやうに、「玉音放送原案の起草者 安岡正篤翁逝く」といふ一段か二段抜きの見出しで、「終戦の時の詔書の草案を作った、終戦保守政治の指南役。吉田茂以下歴代の首相が師事して宰相学の伝授を受けた人。政財界の指導者たちも其の教へを受けた者が多い」と報じてゐた。

 

安岡翁は其の人物、学問、文章を以て、早くも大正期から名声のあった人である。私は戦前已に翁の著作に親しみ、戦後は翁の設立された全国師友協会に属し、その機関誌「師と友」に寄稿すること前後70数回に及んだ。翁から戴いた書翰(*しょかん)、著書も多く、上京すれば必ず一度は欵晤(*かんご?)を得ることを楽しみとした。

 

 丁度この稿を書き始めた所へ、師友協会から「師と友」の特輯「安岡先生追悼号」が届いた。拙文も載ってをり、それに私は「世のジャーナリズムは一様に安岡先生を終戦の詔勅の起草者と伝へてゐるが、それは誤りである。関与したが起草はしなかった。実際の起草者は世に知られてゐない。私は此の事につき再三先生と語り合ったことがある。今ここでは触れない」と書いた。といふのは昨年5月、(京都)日本民主同志会の松本(明重)委員長に会った時、終戦詔勅起草者に関するドキュメントを、同氏主宰の雑誌「志道」に書く約束をしたからである。先般同会誌の座談会で少し述べたが固より意を尽さない。ここに改めて文書にする所以である。

 

 詔勅は畏くも陛下の仰言(おおせごと)である。誰が下書きをしたかなど詮さくすべきものではない。明治以来無数の詔勅が下されたが、1、2の例外を除き、そんな事を問題にした者は無かった。然るに終戦の詔勅に限って、10年、20年時が立つにつれて此の禁制(タブー)を破る者が出て来た。私が此の事を安岡翁に言った時、翁は「詔勅に関与した自分は堅く秘密を守ってゐたが、迫水書記官長など進んで之を漏洩し、かなり誤伝があるようだから、自分も内輪の者にだけは真相を語ることにしてゐる」と。又「あの時、書記官長は確かに『詔勅は川田嘱託に起草してもらってゐます』と明言しました」とのことであった。

 

 終戦の詔勅は、当時早稲田大学教授で内閣嘱託を兼ねてゐた川田瑞穂翁が起草したものである。翁な謹直な学者で、そんな重大な事を口外する人ではないが、安岡翁同様、親故の者に限っては之を漏らしてゐやうである。今の世に、川田瑞穂の名も其の何をした人であるかも知る者は極めて稀であらう。翁は終戦後数年して死去し、其の内閣嘱託であった八、九年間に、幾多の詔勅や内閣告諭などを起草したことは、別に記録も無く人にも知られず、歳と共に湮滅に帰しつつある。それでも構わないかも知れないが、反面、誤った説が盛んに伝へられてゐるやうではこれは問題である。

 

 私は昭和二年以来翁と忘年の交りを結び、特に宮内省嘱託となってからは、公私両面から一層関係が深くなった。其の公の面の一例を挙げると、紀元二千六百年記念式典の時、高松宮宣仁親王の読まれる賀表は私が起草し、近衛内閣総理大臣の読む寿詞は川田翁が起草し、二人草案を持ち寄ってお互ひに商量したことがある。さういう訳で、終戦の玉音放送の翌日、私は川田翁を其の家に訪ひ、詔書成立の経過と二、三の疑問について質した。翁は自筆の詔書案草稿(大日本帝国政府用罫紙にペン書)と極秘の印ある内閣の謄写版刷「詔書案」と示し、縷々として其の詳細を語った。今それを回憶し要約すれば次の如くである。

 

 

草案が出来るまでの真相

 

 終戦の数日前、川田嘱託は内閣(首相官邸)に呼出され、内閣書記官長から御前会議に於ける陛下の御言葉を覚書(メモ)したものを示され、急ぎ詔書の草案を作ること、陛下は特に「間違ひないやうに書けよ」と念をお押しになったといふことを聞き、覚書を熟読して、優渥なる御思召の全幅を伺い知り、これをこのまま文章に更めれば好い訳であるが、今や祖国はどうなることかと戦々兢々たる国民に対しては、朕は必ず国体を護持し、常に爾民民と共に在る。堪え難きを耐へ忍び難きを忍び、再建に努力しやうという御趣旨が全体の眼目とならねばならぬと考へ、忽卒に筆を起したところ、思ったよりすらすらと一応の案が出来上った。

 

 書記官長は早速これを複写し、タイプに付して内閣当事者の間に周旋した。それ以来緊迫した空気の中に連日首相官邸へ詰め掛けてゐる間、書記官長は外務当局から、二、三外部の者から種々の意見を徴し、それに自身の意見をも加へて一々回示する。その中の取るべきものを取って、案文を修正補足し、文章の前後するものを調整し、稿を改めること再三に及び、漸く成案を得て閣議に付せられた。「戦局必ズシモ好転セズ」といふ拙い語は、枉げて軍の意志に従ったものであり「万世ノ為ニ太平ヲ開ク」「五内為ニ裂ク」などいふ語の妥当性についても、自分としては否定的である。あれは人が入れたものである。外務省からは適切な指摘があった。閣議は枝葉末節にこだはり、ごたごたしたやうだが二、三の修正で済み、結局、最初の原案が大した変化なく通った訳である。宣戦の詔書より遥かに増であらうと。

 

 因みに翁は宣戦の詔書にも関与している。終戦の詔書と同じ日に新聞、ラジオを通じて「内閣告諭」が発表せられた。詔書とは似もつかぬ駄文である。川田翁の詔書の話が終わると、私は更に告諭の事について問うて見た。翁は「あれは内閣嘱託某が下書きしたものを、書記官長数人が集って相談し添削したとかで、私にも見てくれといふ。見れば全く手の付けやうのない代物で、一応持ち帰ったところ、その晩に発表してしまった。此れがそれだ」と言って、極秘の印のある謄写版「内閣告諭案」を出して示した。上述の謄写版「詔書案」と全く同じ紙、同じ刷り、それに同じ人らしい手で滅多加筆した痕がある。

 

 そこでつくづく感じた次第であるが、漢文体の文章といふものは、普通の文語や口語と同じやうに思ったら大変な間違ひである。漢学能文の士にして始めて之を能しく得る。此の「内閣告諭」はずぶの素人の作文である。同じ漢文口調といっても、生硬、稚拙、卒読に堪えない。「終戦詔書」は玄人中の玄人である。荘重、典雅、文格自ら具わり、王者の辞たるに愧じない。素人が一蹴して及べるものではない。ここのところを、是非読者に了解して戴かなければならない

 

 ――――終戦から、二十年近く経過した或る日、私は川田翁未亡人を訪ね、上述の翁直筆の詔書案草稿及び、極秘の印ある謄写版刷「詔書案」「内閣告諭案」の三件を併せ借受けて来た。現に尚私の手許にある。この事については、詔書の内容と共に後に再び述べる

                                                (上-2に続く)

 

 

 

上記で紹介した文章は、終戦当時宮内省の御用掛(専門的な知識を生かして皇室のために働く非常勤の国家公務員)として主に詔書の起草に携わっていた大叔父(祖父の弟)の木下彪(ことら)が、終戦の詔勅にまつわる逸話として雑誌(もしくは同人誌/雑誌名は不明)に掲載した文章です。

大叔父が当時書いたそのままの文章を再現するため、古い書体、旧かなづかい。送り仮名のまま書いていますが、コピーの状態により解読できない漢字が一部あります。再現できても、今の私には意味不明、どう読むのかさえ分からない言葉もあります。

(  )内に*がついているものは私が書き加えたふりがな、*のないものは、叔父が文章内に書き加えているふりがな。叔父は、雑誌掲載後、自分でさらに手書きで加筆しており、それは叔父が書いたままを書き加えました。

なお、ネット上で読みやすいように、ところどころ行を空けています。  

                            光田菜央子

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