2009年8月アーカイブ

終戦詔勅の起草者と関与者(中-1)

終戦詔勅の起草者と関与者(中-1)

~川田瑞穂翁と安岡正篤翁~

 

木下彪(きのした・ことら/元宮内省御用掛・元岡山大学教授)

 

起草より第三案までの真相

 終戦の年、大詔一たび下るや、さしも分裂した国論、混乱した民心も、ぴたり平静に帰して無事に難局が収拾された。全く我が国体、天皇の権威によることであるが、又、聖徳太子の十七条憲法にいふ所の「承詔必謹」が古今を通じて国民の深い信念となってゐたからである。然るに戦後、国体は変わり詔勅は無くなった。然るに世界の風雲は依然として暗い。若し又国家非常事態の出現した秋は、何によって国論統一民心の一致を図ることができようか。国会の議決や総理の命令に何程の権威が有るか。国の将来に深憂を抱く人は決して少なくないであらう。

 

 私は終戦の詔書が、我国千年の伝統ある詔勅の最後であり、その歴史の上に於ける意義の深く且つ大なるを思ふにつけ、それが久しく誤って世に伝へられてゐることに、黙して止むことが出来ない。其の誤伝を私が初めて知ったのは昭和四十四年台湾に於てである。といふのは、四十二年三月岡山大学を定年退職した私は、その年九月台湾の大学に聘せられて赴任し、一年余り経た後、彼地の雑誌に日本の終戦及び詔書に関する記事が出たのを読んで、その間違ひの甚だしいのに驚き、而も(*しかも)その間違ひの原が日本に在ることが分かった。やがて学校の休暇で帰国し、上京した私は川田翁未亡人を訪ねて台湾の雑誌の記事を話し、川田翁が私に示した詔書案草稿の存否を問うた。夫人は「その事についてはお目にかけたいものがあります。草稿は大事にしまってあります」と言ひ、読売新聞の切抜一束と「詔勅其他草案」と川田翁の自署した大封筒とを取り出して示された。私は封筒を検して詔書案草稿の有ることを確かめ、次で読売の切抜を読んだ。それは「昭和史の天皇」と題した長編の一部「終戦の詔書」の題下、当時の内閣書記官長を始めとして関係者各人の談話を寄せ集めたものであった。台湾の雑誌記事も之に拠ったものであることが判明した。

 

 封筒の中には右の川田の草稿と共に、謄写版刷「詔書案」(極秘の印あり)、謄写版刷「内閣告諭案」(極秘の印あり)、内閣用罫紙に書いた「開院式勅語案」(極秘の印あり。終戦の年九月四日召集の臨時帝国議会に賜りし勅語案文)などが有り、その外、何時のものかしらべて見ねば分からぬ各種各様の詔勅案草稿、内閣関係、総理大臣関係の文案草稿など有り。封筒の外にも、川田嘱託に宛てた内閣総務課の書牘の類、川田の友人から寄せられた文翰の類など、苟くも詔書問題の参考となるべき資料が多数発見された。之を一括して未亡人の手から私は借り受けて来た。加藤翁已に亡き今日、川田翁が多年内閣に於て如何に制誥の事に携わったか、而して終戦詔書の起稿に如何に係ったかを知る者は私以外には無い。これを闡明して世の誤伝を正すことは、当然私の義務だと思ったからである。

 

 それで私は嘗て宮内省に於て私の上司又同僚であった人々を訪ねて相談する所があった。其の極く概略をここに記して置かう。先ず入江侍従(今の侍従長)を訪ねて相談し、その紹介で読売新聞の宮内記者で、「昭和史の天皇」のスタッフである星野甲子久氏に会ひ、該書起草者についての誤謬を指摘説明した。それから元宮内省図書頭の金田才平氏(戦後弁護士)に書面を以て指授を乞うた。同氏の来書に云ふ。

「・・・終戦詔書案起草者に関し相争ふことは成るべく避くべきであると存じます但し既に誤報が公表されているとすれば確実なる資料を具し真の起草者の伝記として其の中に詳述し世間の信を得るに足る信憑を網羅し世に信を問うべきでしょう。誤報者それ自身に対し詰問したり訂正を要求しても恐らく之に受け答えをしないでしょう所謂黙殺するであらうと存じます。戦後相当年所を経れば外交秘密文書も公表される慣例がある如く詔書起草者に関するドキュメントを公表しても良いと思ひます。」

 

 私は金田氏の指示に従ひ、川田瑞穂翁の小伝を書いて其の中に翁が草詔の経過を、確実なる資料、世間の信を得るに足る証憑(川田直筆の詔書案第一稿、其他)を挙げて詳述することとし、早く一文を草した。其の後安岡翁に会って話を聞くに及んで、更に文を補修し標題を改めて本稿を為した次第である。

 

先ず川田嘱託が首相官邸内の一室で、内密に起草した「詔書案」の原文(雑誌には写真が掲載)を録出して検討を加へなければならない。これこそ天地間に二つと無い終戦詔書第一稿である。拙文前回に於て述べた如く「書記官長は早速これを複写し、タイプに付して内閣当事者の間に周旋した」ものである。草稿が川田の手に残り、自宅に持ち帰られたことは天の加護といはねばならぬ。

 

 

注:上記で紹介した文章は、終戦当時宮内省の御用掛(専門的な知識を生かして皇室のために働く非常勤の国家公務員)として主に詔書の起草に携わっていた大叔父(祖父の弟)の木下彪(ことら)が、終戦の詔勅にまつわる逸話として雑誌(もしくは同人誌/雑誌名は不明)に掲載した文章です。

大叔父が当時書いたそのままの文章を再現するため、古い書体、旧かなづかい。送り仮名のまま書いていますが、コピーの状態により解読できない漢字が一部あります。また再現できても、今の私には意味不明、どう読むのかさえ分からない言葉もあります。

(  )内に*がついているものは私が書き加えたふりがな、*のないものは、叔父が文章内に書き加えているふりがなです。叔父は、雑誌掲載後、自分でさらに手書きで加筆しており、それは叔父が書いたままを書き加えました。

なお、ネット上で読みやすいように、ところどころ行を空けています。

 

                              光田菜央子

終戦詔勅の起草者と関与者(上-2)

終戦詔勅の起草者と関与者(上-2)

~川田瑞穂翁と安岡正篤翁~

 

木下彪(きのした・ことら/元宮内省御用掛・元岡山大学教授)

 

 

文部省の手になる天皇の「人間宣言」 

 当時、私は宮内省で宮内省御用掛加藤虎之亮翁と一室に二人机を並べてゐた。加藤翁も詔書の事につき川田翁の話を聞いて来たので、二人は詔書と告諭と併せて、忌憚なき見解を述べ合った。国より職掌の然らしむる所である。元来、詔勅類は宮内省に於て起案したもので、内容によっては内閣に於てした。戦争中は大小多数の詔勅が下されたが、大半は宮内省で加藤御用掛の筆に成った。これは私の親しく視て来た事実である。凡そ国家の大手筆には、内閣に川田在り宮廷に加藤在りという一時期であった。

 

 終戦の翌年頭、突然、変わった詔書が公布され、全国民が衝撃を受けた。爾来世に天皇の「人間宣言」と言はれてゐるものである。内容も異常だが文章は更に異常である。一体これは誰の手にかかったのだろう。質ねて見る気にもなれなかった。程経て川田翁に出会ったので聞いてみると「あれは実は自分の所へも廻ってきた。文部省で作ったといふ。我々の手でどうしやうもないものだから、その訳を話して返した」と。官庁の公文書が急に口語横書きになり、漢字制限、仮名遣ひが問題になり出した頃である。この様な詔勅は変わり行く時世の象徴であらう。それにしても余りに変化の急激なのに、驚かざるを得ない。

 

 昭和二十三年三月、政令により嘱託制度が廃止された。川田翁は内閣を解雇され早大教授に専任し、加藤翁は宮内省を去って東洋大学教授、次で同学長に就任した。私は宮内省御用掛で貴族院嘱託を兼ねていたが皆解嘱され、二十五年三月岡山大学教授に赴任した。

 

 二十六年一月川田翁が卒去した。七十三であった。其の訃を伝へた読売新聞は「終戦の詔勅を起草した一人として知られる」朝日新聞は「終戦の詔書の草案に加はった」と書いた。

三十三年十二月加藤翁が卒去した。年八十。両翁は明治十二年生まれで、同庚にして同道、同志、兄弟も竜(*判読不明)ならぬ仲であった。私は両翁に兄事すること二十年乃至三十年に及んだ。ここで両翁の略歴について記して置かねばならない。

 

梅崖に可愛がられた川田翁

 川田翁名は瑞穂、号は雪山、郷里は土佐の雪光山の名から取ったといふ。明治二十八年十七歳の時大阪に出て、漢学者山本梅崖の塾に入り漢学を修めた。三十一年東京に出て漢学者根本通明に経学を学び、三十五年早稲田専門学校政治経済科に入学、中退して京都に出て京都府會書記となる。傍ら政治文学雑志(*ママ)「近畿評論」を主宰し、文名を表はす。大正五年維新史科編纂会嘱託となり、京都方面の史科調査に従事し、十一年維新史科編纂官補となり東京に移る。時恰も漢字振興決議案衆議院を通過するに際し、先輩同志と共に東洋文化学会を創立し、幹事に挙げられ、雑誌「東洋文化」を刊行す。十二年十月、司法省嘱託となり、同時に大東文化学院助教授兼幹事として学院の経営に当る。十三年司法省を辞し、十五年大東文化学院の内紛により同院を辞し、昭和三年同院教授兼学生監として復職す。昭和五年早稲田大学講師。十年同教授。十五年内閣嘱託を兼任。二十三年嘱託制度廃止さる。二十五年早稲田大学を定年退職す。

 

 右略歴は川田翁自筆の履歴書を見て書いた。翁には世のいはゆる学歴は無い。一時早稲田に入り直ぐ退いた。一生の修業は家塾に於てした。山本梅崖の「梅清処塾」根本道明の「義道館」、この二つの漢学塾に於ける前後七年間の生活と、梅崖という文章家、根本羽嶽という経学家の薫陶により、翁の人物、学問、文章は其の基礎が出来上り、更に長尾雨山、国分青崖、松平天行、牧野藻洲等、詩文大家の提撕が加わったのである。

 

 

アダ名は子路

 翁は私が兄事した二十四年間に、折りに触れては昔の厳しい中にも情味のあった塾生活、懇到にして身に浸み入るやうな塾師の講説、教訓などを語ってくれられた。其の詳しい話をここに書く余裕はない。ここには隠れたる学者川田雪山を浮彫りにするような逸話を綴って其の小伝といようと思ふ。

 

 大阪に出た少年川田は郷土の先達梅崖を頼り、天神橋畔の塾を尋ねて入門を願った。孔子の像の前で師弟の盃が取交わされた。塾則は厳格で、朝は夏四時冬四時半に起き、夜は十時に寝る。講義は朝1時間、塾生の外、小中学教員や会社公署の勤人(つとめにん)が出勤前に聴講に来る。暮に二時間。夜二時間。昼は自習である。毎週、文一編詩二首の宿題が出る。月に一回分会がある。梅崖は有名な文章家で、塾では特に作文を重んじた。宿題の文を作り師の添削を受ける。作の巧拙はとも角、構想に修辞に、鍛錬の足りないものは朱で棒を引いたまま返される。再三再四考へ直し作り直す。梅崖は、欧陽修ほどの文豪でも作った文を室の壁に貼りつけ、毎日読んでは直し又直し、苦心惨憺したという故事を引いて「小便に血が出るまでやれ」と言ったと。強度の勉強で頭が錐で刺すやうに痛み、全く血尿の出る思ひをしたと川田翁の話であった。

 

 文会は月に一度、全生徒、師に率いられて大阪郊外に到り、広い料亭の二階を借りて、即席に詩又は文を作り、師は其の場で之を添削する。詩文は思索を尽くすことが肝要だが、時には敏速に用を弁ずることも心得なければならぬとの見地からである。毎月生徒の成績を判定して席次を定め、講堂の入口に揚げた生徒の名札を上下することによって之を表示した。同時に激励の意があったのである。但し、これは当時どこの塾でも実行した事らしい。川田は成績が好く、殊に文章が抜群なので、梅崖から特に目を掛けられた。論語の中で、孔子から最も可愛がられ同時に最も多く叱られてゐる弟子は子路である。川田が度々師に叱られる所を見て、塾中誰いふとなく川田を綽名して子路子路と呼ぶやうようになった。之を聞いた師は川田に「子路は人これに告ぐるに過ちあるを以てすれば則ち喜ぶとある如く、過を改むるに勇に、善を好んだ聖賢の心を学ぶことが大切だ」と諭した。かう言って懐かしさうに昔の師の恩を語る川田翁であった。

 

 

学と徳を兼ねた山本梅崖

 梅崖師は身を持すること厳格で、塾生は師が膝を崩したり横臥したりした姿を見たことは無いといふ。随って生徒を律するにも法があり、殊に若い者が猥褻な談を為し又猥褻な地に近づくことを戒しめた。急ぐ用がある時そこを通ることは如何ですかと問へば、急がば廻れ、急いで廻り道せよと言われたと。当時大阪で最大の塾は藤沢南岳の泊園書院であるが、そこに四つの禁律が有って其の第一が「淫遊」であったと。他は「俚歌」「挙杯」「暴論」で、俗歌、酒乱、喧嘩口論を禁じたのであった。又大阪には亨保九年以来明治二年まで百四十余年続いた有名な懐徳堂といふ塾が在ったが、そこでも五勿の禁なるものが有り、就中「勿登戯場」「勿踏倡街」芝居小屋と花柳街、この二つは特にやかましかったと云ふ。

 

 当時の書生は登山を神聖な行事とし、殊に山に由緒ある神社仏閣又は貴い史蹟が有れば尚更の事であった。金剛山は大阪から往復二十五里、終始徒歩、不眠不休、山頂に登って日出を拝し、楠公勤王の跡を弔って帰る。この難行を塾生数人で試みた時、早朝出発に当り、師夫妻と隠居の母堂まで門を出て見送られたと云ふ。今日の学生が登山を「山を征服する」など云ひ、往々遭難して新聞種になるのとは雲泥の相違がある。

 

 梅崖は土佐で儒を世業とする家に生まれ家学を受けた後、明治初年東京に出て洋学を修め、工部省の電信技師となり、明治十年西南の役に従軍したが西郷に同情して帰り、翌年官を辞して新聞記者となり、大阪、岡山、福井各地の新聞に主筆又編集長を勤め、政治は自由党に属した。十五年大阪に漢学塾を開いたが、経世の志あり、朝鮮問題に関心し、同志の士と相謀り、清国の干渉を排除して朝鮮を独立自主の国たらしめんとの計画を建て、其の檄文を書いたことが政府の忌諱に触れ、入獄四年、憲法発布で大赦に遇ひ、雨後意を政治に断った。其の檄文は「日本義徒、檄告宇内人士」に始まり、朝鮮の孤弱にして清国の圧政に苦しむ事、嘗て米国の独立戦争に当り、仏国の義を見て之を助けたる跡を慕ひ、自由の大義に依り其の独立を助成せんとする所以を論じ、「天下万世、知吾徒之心、如日月著于天」と結んだ。之を日清韓三国に配布し、英仏語に翻訳して欧米の新聞に投寄する予定であったと。檄文は非常な名文である。梅崖には「梅清處文鈔」二巻がある。

 

 明治三十年、清国に遊ぶこと百余日、「燕山楚水遊記」二巻の著がある。自ら写真機を携へて彼地の名勝景物を撮影し、帰来大阪の画家三十人に託し、一人一景ずつ写真に依て絵画を作り、書中に挿入した。我が明治年間、漢学名家にして清国に遊び漢文の遊記を遺したもの、竹添井井の「桟雲峡雨日記」岡鹿門の「観光遊記」と梅崖の「燕山楚水遊記」が其れである。岡と山本は慷慨憂国の士で、二著は時勢に憤激した余の論策と見ることも出来る。今後、此の種の文章三名著の如きを見ることは望めないであらう。いや已に絶へて久しいのである。

 

 山本梅崖は学と徳を兼ね備えた教育者、文章家にして経世家である。其の典型は川田雪山に於て最も多く之を見るのである。

                                   (中に続く)

 

注:上記で紹介した文章は、終戦当時宮内省の御用掛(専門的な知識を生かして皇室のために働く非常勤の国家公務員)として主に詔書の起草に携わっていた大叔父(祖父の弟)の木下彪(ことら)が、終戦の詔勅にまつわる逸話として雑誌(もしくは同人誌/雑誌名は不明)に掲載した文章です。

大叔父が当時書いたそのままの文章を再現するため、古い書体、旧かなづかい。送り仮名のまま書いていますが、コピーの状態により解読できない漢字が一部あります。また再現できても、今の私には意味不明、どう読むのかさえ分からない言葉もあります。

(  )内に*がついているものは私が書き加えたふりがな、*のないものは、叔父が文章内に書き加えているふりがなです。叔父は、雑誌掲載後、自分でさらに手書きで加筆しており、それは叔父が書いたままを書き加えました。

なお、ネット上で読みやすいように、ところどころ行を空けています。

 

                              光田菜央子

終戦詔勅の起草者と関与者(上-1)

終戦詔勅の起草者と関与者(上-1)

~川田瑞穂翁と安岡正篤翁~

 

木下彪(きのした・ことら/元宮内省御用掛・元岡山大学教授)

 

 

詔勅は陛下の仰言 

 

 昨年(昭和58年)12月安岡正篤翁が亡くなった時、各新聞を見ると、皆申し合わせたやうに、「玉音放送原案の起草者 安岡正篤翁逝く」といふ一段か二段抜きの見出しで、「終戦の時の詔書の草案を作った、終戦保守政治の指南役。吉田茂以下歴代の首相が師事して宰相学の伝授を受けた人。政財界の指導者たちも其の教へを受けた者が多い」と報じてゐた。

 

安岡翁は其の人物、学問、文章を以て、早くも大正期から名声のあった人である。私は戦前已に翁の著作に親しみ、戦後は翁の設立された全国師友協会に属し、その機関誌「師と友」に寄稿すること前後70数回に及んだ。翁から戴いた書翰(*しょかん)、著書も多く、上京すれば必ず一度は欵晤(*かんご?)を得ることを楽しみとした。

 

 丁度この稿を書き始めた所へ、師友協会から「師と友」の特輯「安岡先生追悼号」が届いた。拙文も載ってをり、それに私は「世のジャーナリズムは一様に安岡先生を終戦の詔勅の起草者と伝へてゐるが、それは誤りである。関与したが起草はしなかった。実際の起草者は世に知られてゐない。私は此の事につき再三先生と語り合ったことがある。今ここでは触れない」と書いた。といふのは昨年5月、(京都)日本民主同志会の松本(明重)委員長に会った時、終戦詔勅起草者に関するドキュメントを、同氏主宰の雑誌「志道」に書く約束をしたからである。先般同会誌の座談会で少し述べたが固より意を尽さない。ここに改めて文書にする所以である。

 

 詔勅は畏くも陛下の仰言(おおせごと)である。誰が下書きをしたかなど詮さくすべきものではない。明治以来無数の詔勅が下されたが、1、2の例外を除き、そんな事を問題にした者は無かった。然るに終戦の詔勅に限って、10年、20年時が立つにつれて此の禁制(タブー)を破る者が出て来た。私が此の事を安岡翁に言った時、翁は「詔勅に関与した自分は堅く秘密を守ってゐたが、迫水書記官長など進んで之を漏洩し、かなり誤伝があるようだから、自分も内輪の者にだけは真相を語ることにしてゐる」と。又「あの時、書記官長は確かに『詔勅は川田嘱託に起草してもらってゐます』と明言しました」とのことであった。

 

 終戦の詔勅は、当時早稲田大学教授で内閣嘱託を兼ねてゐた川田瑞穂翁が起草したものである。翁な謹直な学者で、そんな重大な事を口外する人ではないが、安岡翁同様、親故の者に限っては之を漏らしてゐやうである。今の世に、川田瑞穂の名も其の何をした人であるかも知る者は極めて稀であらう。翁は終戦後数年して死去し、其の内閣嘱託であった八、九年間に、幾多の詔勅や内閣告諭などを起草したことは、別に記録も無く人にも知られず、歳と共に湮滅に帰しつつある。それでも構わないかも知れないが、反面、誤った説が盛んに伝へられてゐるやうではこれは問題である。

 

 私は昭和二年以来翁と忘年の交りを結び、特に宮内省嘱託となってからは、公私両面から一層関係が深くなった。其の公の面の一例を挙げると、紀元二千六百年記念式典の時、高松宮宣仁親王の読まれる賀表は私が起草し、近衛内閣総理大臣の読む寿詞は川田翁が起草し、二人草案を持ち寄ってお互ひに商量したことがある。さういう訳で、終戦の玉音放送の翌日、私は川田翁を其の家に訪ひ、詔書成立の経過と二、三の疑問について質した。翁は自筆の詔書案草稿(大日本帝国政府用罫紙にペン書)と極秘の印ある内閣の謄写版刷「詔書案」と示し、縷々として其の詳細を語った。今それを回憶し要約すれば次の如くである。

 

 

草案が出来るまでの真相

 

 終戦の数日前、川田嘱託は内閣(首相官邸)に呼出され、内閣書記官長から御前会議に於ける陛下の御言葉を覚書(メモ)したものを示され、急ぎ詔書の草案を作ること、陛下は特に「間違ひないやうに書けよ」と念をお押しになったといふことを聞き、覚書を熟読して、優渥なる御思召の全幅を伺い知り、これをこのまま文章に更めれば好い訳であるが、今や祖国はどうなることかと戦々兢々たる国民に対しては、朕は必ず国体を護持し、常に爾民民と共に在る。堪え難きを耐へ忍び難きを忍び、再建に努力しやうという御趣旨が全体の眼目とならねばならぬと考へ、忽卒に筆を起したところ、思ったよりすらすらと一応の案が出来上った。

 

 書記官長は早速これを複写し、タイプに付して内閣当事者の間に周旋した。それ以来緊迫した空気の中に連日首相官邸へ詰め掛けてゐる間、書記官長は外務当局から、二、三外部の者から種々の意見を徴し、それに自身の意見をも加へて一々回示する。その中の取るべきものを取って、案文を修正補足し、文章の前後するものを調整し、稿を改めること再三に及び、漸く成案を得て閣議に付せられた。「戦局必ズシモ好転セズ」といふ拙い語は、枉げて軍の意志に従ったものであり「万世ノ為ニ太平ヲ開ク」「五内為ニ裂ク」などいふ語の妥当性についても、自分としては否定的である。あれは人が入れたものである。外務省からは適切な指摘があった。閣議は枝葉末節にこだはり、ごたごたしたやうだが二、三の修正で済み、結局、最初の原案が大した変化なく通った訳である。宣戦の詔書より遥かに増であらうと。

 

 因みに翁は宣戦の詔書にも関与している。終戦の詔書と同じ日に新聞、ラジオを通じて「内閣告諭」が発表せられた。詔書とは似もつかぬ駄文である。川田翁の詔書の話が終わると、私は更に告諭の事について問うて見た。翁は「あれは内閣嘱託某が下書きしたものを、書記官長数人が集って相談し添削したとかで、私にも見てくれといふ。見れば全く手の付けやうのない代物で、一応持ち帰ったところ、その晩に発表してしまった。此れがそれだ」と言って、極秘の印のある謄写版「内閣告諭案」を出して示した。上述の謄写版「詔書案」と全く同じ紙、同じ刷り、それに同じ人らしい手で滅多加筆した痕がある。

 

 そこでつくづく感じた次第であるが、漢文体の文章といふものは、普通の文語や口語と同じやうに思ったら大変な間違ひである。漢学能文の士にして始めて之を能しく得る。此の「内閣告諭」はずぶの素人の作文である。同じ漢文口調といっても、生硬、稚拙、卒読に堪えない。「終戦詔書」は玄人中の玄人である。荘重、典雅、文格自ら具わり、王者の辞たるに愧じない。素人が一蹴して及べるものではない。ここのところを、是非読者に了解して戴かなければならない

 

 ――――終戦から、二十年近く経過した或る日、私は川田翁未亡人を訪ね、上述の翁直筆の詔書案草稿及び、極秘の印ある謄写版刷「詔書案」「内閣告諭案」の三件を併せ借受けて来た。現に尚私の手許にある。この事については、詔書の内容と共に後に再び述べる

                                                (上-2に続く)

 

 

 

上記で紹介した文章は、終戦当時宮内省の御用掛(専門的な知識を生かして皇室のために働く非常勤の国家公務員)として主に詔書の起草に携わっていた大叔父(祖父の弟)の木下彪(ことら)が、終戦の詔勅にまつわる逸話として雑誌(もしくは同人誌/雑誌名は不明)に掲載した文章です。

大叔父が当時書いたそのままの文章を再現するため、古い書体、旧かなづかい。送り仮名のまま書いていますが、コピーの状態により解読できない漢字が一部あります。再現できても、今の私には意味不明、どう読むのかさえ分からない言葉もあります。

(  )内に*がついているものは私が書き加えたふりがな、*のないものは、叔父が文章内に書き加えているふりがな。叔父は、雑誌掲載後、自分でさらに手書きで加筆しており、それは叔父が書いたままを書き加えました。

なお、ネット上で読みやすいように、ところどころ行を空けています。  

                            光田菜央子

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